Mag-log inグレゴール・ヴァレンシュタイン公爵は、拘束されてもなお、公爵だった。
少なくとも、本人はそう振る舞っていた。 北翼の尋問室に通された時も、彼は背筋を伸ばし、顎を引き、皺ひとつない上着の襟元を整えていた。拘束中とはいえ、まだ正式な爵位剥奪には至っていない。衣服も囚人服ではなく、簡素ながら公爵家の人間としての体裁を保つものを許されている。 だが、その袖口に飾りはなかった。 指輪もない。 家紋入りの飾り鎖も取り上げられている。 それだけで、彼の威厳は半分ほど削がれて見えた。 それでもグレゴールは、部屋へ入るなり周囲を見渡し、低く言った。「これは何の真似だ」 声には、まだ人を従わせる響きがあった。 長年、公爵として命じる側に立ってきた男の声。 家臣も、使用人も、夫人も、娘たちも、その声で黙らせてきたのだろう。雨音が四口食べた理由は、粥の味だけではなかった。 そのことが分かったのは、翌日の昼前だった。 聖リディア産婆院から届いた報告書には、いつものように食事量、体温、授乳、夜間灯油の使用量が並んでいた。 ――雨音、朝四口。 ――湯気を逃がした粥。吐き戻しなし。 ――本人、五口目で手を止める。 ――理由を問うと、「四口でいい」と返答。 ――子、仮名未定。体温やや低め。保温布調整。 ――夜明け、朝半椀。灯り、授乳少量。体温安定。 リリアナは、そこを二度読んだ。「四口でいい……」 昨日は、三口から四口へ増えたことを喜んだ。 けれど今日は、五口目で止まった。 しかも、気分が悪くなったからではない。 痛いからでも、眠いからでもない。 本人が「四口でいい」と言った。 エレノアも報告書を見ていた。「気になるわね」「はい。でも、聞きすぎるのもよくないですよね」「ええ。理由欄は、相手の心を無理に掘るためのものではないわ」 リリアナは、その言葉をすぐに手帳へ書いた。 ――理由欄は、心を無理に掘るためのものではない。 食べられなかった理由を書く。 それは、次の支援につなげるためだ。 けれど、理由を聞く側が間違えれば、尋問になる。 雨音が四口で止めた理由。 知りたい。 けれど、知りたいから聞くのではない。 次の食事をどう出すかに必要なら、聞く。 本人が話せる範囲で。 そこを間違えてはいけない。
基準椀が届いた翌日、聖リディア産婆院の台所には、小さな混乱が起きた。 椀が割れたわけではない。 粥が焦げたわけでもない。 夜間灯油が不足したわけでもない。 問題は、壁に貼られた一枚の表だった。 ――産後食事表。 そこには、母親ごとの仮名、朝・昼・夕の粥の量、吐き戻しの有無、体調、次に見る時間が書かれている。 夜明け。 朝、半椀。 昼、半椀より少し多く。 夕、三分の一。 吐き戻しなし。 疲労あり。 次回、朝。 そこまではよかった。 問題は、その下だった。 ――雨音。 朝、数口。 昼、拒否。 夕、未確認。 雨音というのは、別室にいる母親の仮名だった。 彼女もまた本名を出したくないと言い、前日に仮名記録の説明文を読んだ一人である。 雨の夜に産婆院へ来たから、雨音。 本人がそう言った。 年は夜明けより少し上に見えるが、目の下が深く、いつも耳を澄ませるように周囲を警戒している。 その雨音が、昼の粥を拒んだ。 理由は、表だった。「食べられないのを、みんなに見られるのは嫌」 エダ産婆からの報告には、そうあった。 リリアナは北翼でそれを読んで、しばらく黙った。 基準椀。 食事表。 半椀。 記録。 良い仕組みだと思っていた。 いや、良い仕組みではあるのだろう。 でも、壁に貼れば誰かに見える。 夜明けが半椀食べたことは前進だった。 だが、雨音にとっては、自分が数口しか食べられないことを突きつ
夜明けが粥を半椀食べた。 その報告が王妃基金の北翼へ届いた時、リリアナは最初、その一文の重さが分からなかった。 ――母仮名「夜明け」、朝の粥を半椀摂取。 ――吐き戻しなし。 ――子仮名「灯り」、授乳少量。体温安定。 ――夜間灯油使用、二回。煙なし。 ――保温布ずれなし。 半椀。 たったそれだけ。 けれど、フィオナ司祭はその報告を読んで、静かに息を吐いた。「よかった」 その声が、思っていたより深かった。 リリアナは顔を上げる。「半椀って、そんなに大事なのですか?」「大事です」 フィオナ司祭は頷いた。「出産の後、食べられない母親は少なくありません。体力が戻らなければ、赤子を抱くことも、乳を与えることも、考えることも難しくなります」「考えることも?」「はい。名前をどうするか。どこへ行くか。誰に助けを求めるか。そういう判断にも、体力が要ります」 リリアナは、手帳を開いた。 ――食べることは、考える力につながる。 書きながら、少し胸が痛んだ。 名前の記録。 灯油。 保温布。 煮沸鍋。 どれも必要だ。 でも、その前に粥を飲み込めるかどうかがある。 支援は、紙の上だけでは進まない。 胃の中にも、進み具合がある。 エレノアは報告書を手に取り、確認した。「粥の材料は、何日分残っていますか」 ヘンリクが別紙をめくる。「緊急支援分として三日分です。ただし
聖リディア産婆院へ夜間灯油が届いたのは、翌日の昼過ぎだった。 夜ではない。 そこを、エレノアはあえて確認した。 夜間灯油という名だからといって、夜に運べばいいわけではない。 北東区の細い道は、日が落ちると足元が悪い。 灯油壺を積んだ馬車が石畳の欠けに車輪を取られれば、割れる危険がある。 割れれば、油は無駄になるだけでなく、火の近い場所では危険にもなる。 だから、昼に届ける。 夜に使うものほど、昼のうちに整える。 それは、王妃基金がこの数日で学んだ新しい原則だった。 北翼の小会議室では、朝から夜間灯油の支援方法について話し合いが行われていた。 リリアナは、机の上に置かれた小さな油壺の見本をじっと見つめている。 茶色い陶器の壺。 口は細く、栓には封印紐が付けられている。 派手さはない。 けれど、これが夜の産婆院で赤子の呼吸を見る灯りになる。「灯油は、ただ渡せばいいものではありません」 薬師マティアスが言った。「火を扱います。赤子や産後の母親がいる場所では、置き場所、灯芯、換気、消火用の水まで確認が必要です」 リリアナは、すぐに手帳を開いた。「灯油、灯芯、換気、消火用の水……」 書きながら、少し顔をしかめる。「灯りを増やすと、危険も増えるんですね」「はい」 マティアスは頷いた。「暗いと体調確認が遅れます。しかし、明るくするだけでは火事の危険が出ます」「両方見る」「そうです」 リリアナは深く息を吐いた。 最近、本当に何も一つでは済まない。 布を届ければ洗濯が必要になる。
王妃基金の第一便が聖リディア産婆院に着いたのは、夜の二刻を少し過ぎた頃だった。 王宮北翼を出てから、馬車は北東区へ向かった。 王都の中心部を抜けるまでは石畳も整っていたが、北東区に入ると車輪の音が少し変わる。 道幅は狭くなり、家々の灯りもまばらになった。 夜風は冷たい。 春が近いとはいえ、日が落ちれば冬の名残がまだ肌を刺す。 馬車の荷台には、保温布十組、穀物袋、塩、石鹸、仮登録紙の束、そして王家医療院から一時貸与された煮沸鍋が積まれていた。 煮沸鍋は重かった。 運搬係の男二人が、慎重に持ち上げる。 鍋の底が荷台に当たるたび、鈍い音がした。 派手な贈答品ではない。 花も、菓子も、金糸の布もない。 けれど今夜、この鍋は花籠よりずっと必要だった。 聖リディア産婆院は、北東区の細い通りを入った先にあった。 石造りの小さな建物で、入口の上に白い布が掛かっている。 布には、聖リディアの印だという小さな灯火の刺繍。 その灯りも、今は少し煤けて見えた。 扉を開けたのは、年配の産婆だった。 名をエダという。 髪を布でまとめ、袖をまくり、顔には疲労が濃い。 それでも目は鋭かった。「王妃基金からです」 フィオナ司祭の補佐が告げると、エダは一瞬だけ目を伏せた。「……今夜のうちに来るとは思いませんでした」「緊急支援です。まず、煮沸鍋と保温布を」「こちらへ」 産婆院の中は、静かだった。 静かすぎるわけではない。 奥から赤子の小さな泣き声が時折聞こえる。 低い声で誰かが祈る声。
焼き菓子の焼き色見本が調理場に貼られた翌日、王妃基金の机には、まったく別の種類の紙が積まれていた。 甘い香りはない。 代わりに、湿った羊皮紙と、古いインクと、急いで書かれた文字の匂いがする。 支援申請書。 春挨拶会が終わり、公爵家の噂が一段落し始めたころ、王妃基金には新しい申請が増えていた。 理由ははっきりしている。 王妃基金が止まらなかったからだ。 不正が裁かれ、夫人会が揺れ、公爵家が監督下に置かれ、王太子府も再教育中。 それでも孤児院の屋根は直り、救貧院へ麦と薪は届き、薬草茶は配布前に止められ、使用人宿舎にも暖房費という欄ができた。 王都の人々は見ている。 貴族たちが笑っていても、現場は別の目で見ている。 あの基金は、まだ動くのか。 声を出せば、今度は届くのか。 そう思った者たちが、申請書を持ってくる。 だから、机の上に紙が増えた。 エレノアは、その山を前にして静かに息を吐いた。「増えましたね」 リリアナが隣で言った。 手帳はすでに開いている。 以前なら、紙の山を見ただけで逃げたくなっていたかもしれない。 今は、怖そうな顔をしながらも、逃げる姿勢ではなかった。「ええ







